Return to site

再開拓は農業というよりむしろ考古学に似ている。

なぜ私たちは耕すのか。ふみきコラム1 - 2015/2/7
谷津田開拓は、山や水という自然、昔の人々の暮らし、その場所に刻まれた長い歴史と出会う旅。
 耕作放棄地を再生すると補助金がもらえるということを聞いて、先日役場にそれがどのような制度なのか聞きに行った。すでに何度かここでも触れてきたが、農場では今年から筑波山直下の荒廃した谷津田を4反ほど借りて再「開拓」することになっている。財政が厳しいので多少なりとも補助が出ればとの思いである。補助金には国の制度と、市の制度があって、国の制度は4月になってから申請してその後現地調査があり、許可が下りるにしても来年からで、それまで一切、手をつけてはいけない。作付してからも申請通りに使われているかどうかチェックがあり、そもそも国は米生産を増やしたいわけではないから申請が通るかどうかも怪しい。ということで市の制度ということになるが、これは確かにスピーディで使い勝手が良さそうであった。ところがである、こちらは「農業振興地域内」の耕作放棄地を使った場合という条件がついている。ボクは谷津田は振興地域に含まれていると思っていたのだが(普通は将来宅地として転用してもいいエリアを農業振興法から除外するという形だから)山あいの谷津田など条件の悪い田畑(特に機械が入らないような)は市の農振地域からはずれていたのである。それでこちらの制度も使えそうもなく、残念なことでした。
 そうか、あそこはもはや農地としてさえ見捨てられていたのか、とつくづく思い至った次第。むろん地目は未だに農地であるから農地法の規制は受けている。しかし農業振興地域から除外するというのはそこはもはや農地とは見なさないということである。だから農道も直さないし、むろん圃場整備事業などもやらない、捨て置く、そういうことである。
 数日前「開拓団」の人たちと数人で現地確認に行った。すでに何度か見ていたのだが、そこに足を踏み入れ向こう側の端に行こうとして果たせなかった。アシ(ヨシ?)はともかくイバラが服や肌を傷つけシノダケが立ちふさがりという具合で、今更ながら「手強そう!」と少し弱気になってしまった。田を30年も放置するとこうなるのか。その上の方にも田は続いていてそこはもはや篠竹が密生していて足の踏み入れようもないが、「それ以前から作っていなかった」ということであるから減反政策の始った1970年代にいち早く放棄されたのであろう。
 見捨てられた土地、棄地。考えてみると、国土の中でこれほど無用で完璧に捨てられた土地はない。谷津田は山あいの湿地なので宅地にはならない。畑にもならない。山のように植林もできない。田んぼとしてしか使いようない土地を田んぼとして使わないとなれば永遠に棄てられたということである。自然の営みに還りつつある土地。こんな谷津田が「やさと」(石岡市)には無数にある。筑波山系に囲まれ、また丘陵地と低地が入り混じる土地柄なので、低地(沖積平野)と台地(洪積台地)の接触面は至るところ小谷津田となる。幹線道路を走っていると圃場整備された美田しか目に入らないが、一歩山あいに足を踏み込めば至るところ放棄された小谷津田である。日本全国どれだけの谷津田が放棄されているだろう!
 ボクは廃墟マニアではないが、谷津田には不思議と惹かれるものがある。日本の原風景などと言う気はないが山と水と人の出会う場所、そんなところである。そんなところを今更手をつけてどうだというのだ。そこを言葉で言うのは難しい。谷津田再開拓は農業というよりむしろ考古学に似ているかもしれない。草やシノや木を刈り、道や畦や水路の原状を確認し、クワを入れ田を作っていく。それは「1965年以前の」日本人がどのようなココロでこの列島で暮らしていたか体で知ることである。更には遠く古代にここを拓いた人々につながることでもある。(実際、知人によれば今度借りることになった谷津田の脇には古代道が通り、中世にはこの谷津田は戦場となったことがあるそうだ。(古戦場)、また谷津田入口では奈良時代末から平安初頭の須恵器窯が発見されていて、当地が古代から重要な場所だったことを示している。)谷津田開拓は米作りというより、山や水という自然、昔の人々の暮らし、その場所に刻まれた長い歴史と出会う旅なのである。S